2007年12月28日

ナツメヤシの実ー(2)

ダテリ(ナツメヤシの実)を開いて、中から種を取り出し、マスカルポーネを塗りこんで、トレンティーノ産の胡桃をのせるだけ。

砂糖付けのものと、乾燥させただけのダテリが売っていますが、後者、自然の甘味のあるものを使いました。
こちらも我が家担当だったフルーツの1品。

Alchenchengi-洋種ほおずき

今年のクリスマス昼食の我が家担当はお菓子と果物。
そのうちの1品で洋種ほおずき(イタリア語ではアルケンケンジと長い不思議な名前なので、覚え書きのため。)をビターチョコレートでコーティング。

ス-パーではトロピカルフルーツと同じコーナーに小さな箱に入って売っているので、すっかりそちら方面からの輸入果物だとばかり思っていたのが、よくよく見ると、コレ日本にもあるほおずきじゃないの、ということは日本と似た気候の土地でできる果物なわけです。

案の定、イタリアでも標高1000mを超えるパドヴァの山岳地帯で耕作しているそうで、成熟期は9月。
日本でコレを食べたのは随分昔々の話しなので、味はよく覚えていませんが、この洋種ほおずきのほうは柑橘のさっぱりした味。甘くなりすぎない食後の一口サイズの果物になりました。

2007年12月19日

日本料理教室ー第3回

Yomoyamabanashi会日本料理教室、
〈家で寿司を作ろう〉の第3回目『にぎり寿司』です。

にぎりのネタはまぐろ、バス(スズキの類;ブランジーノ)、サケ(サーモン)、エビ、そしてイクラ、これは軍艦巻きを紹介し、鉄火の細巻きを添えたものを一人前として提案。

イタリア流でにぎりはやや大きめになったかも、でも盛り沢山にすると美味しそうです。

趣向を凝らした大きめの皿に少しだけ盛りつける、日本風の上品なやり方もいいけれど、ここはイタリア、家で友達を呼んでワイワイ言いながら食事をすることも多いので、そんなカジュアルな食事会の前菜だったら、ご飯の大きさなんかに拘らない、盛りつけもダイナミックにどんと出したほうが食卓が華やかになるに違いありません。
(こんなことはイタリア人の皆さんの方がよっぽど手馴れたものでしょうが。)

例えばお客さまを招く時の『Sushi』の1皿は、招く側は作るのを楽しみ、招かれた側は変り種の1品に感嘆、ちょっと珍しい日本の料理に話がはずみ賑わうこと請け合いです。

それから私たちはいつも『正しい食べ方』と『正しい作り方』を言及する傾向がありますが、基本的には巻き寿司のネタはご飯に味が合って、巻きやすいもの(当たり前か?)ならなんでもOK、にぎりについても、それがやや正統から外れても浸透した手まり寿司があるように、寿司飯との組み合わせ次第、他のお皿や飲み物とのバランスについてちょっと想像力を働かすことができれば、『視覚と味覚を楽しむ』という好ましい食事の条件を満たすのではないでしょうか。

今回はNatsukoさんに仕入れの協力をお願いして、お手数かけて鮮魚を運んで頂きました。イクラもちょっとこの辺りでは手に入りにくい、とっても感謝しています。

2007年12月11日

変わること、変わらないこと

週末1年ぶりにミラノへ。

修復中で覆われていたドゥオモのファサードがようやくほぼ姿を見せた、少なくとも暫くぶりに見ました。随分綺麗に洗われて、夜には白い大理石の聖堂が“聳え立つ”様子は壮大で劇的。

脇のリナシェンテがニューリアルしたので、興味で覗いたところ、7階には回転寿司バーや飾っておくだけでも素敵なパッケージのリナシェンテブランド食品コーナーなどができ、随分お洒落に変わっていてビックリ。
さらに、テラスからドゥオモのテラスが近くに見え、しかも尖塔の彫刻もちょっと手が届きそうなくらいに観賞できる。

カレコレかなり昔にテラスに小さな細い階段を一生懸命上って広場を眺めた記憶がありますが、隣のビルのエスカレーターを使ってあっという間に近くまで行き着け、その当時と近い感動が味わえたことに、またまた驚く。

毎年のように何かの用事でミラノには出掛けても、今年ほど“新しくなった”という印象を受けたのは始めて。
どこの都市へ行っても、いつも変わらない景色がイタリアの良さだとばかり思っていたけれど、ともかく日々変わっていることに、改めて気がつく。きっと10年くらいはずっと同じ景色を眺めているとばかり思っていたから、すっかり新装したときに、その時の過ぎた長さをも感じて、思いがけない早さにも愕然としたのかも。

2007年11月27日

日本料理教室-第2回


Yomoyamabanashi日本料理教室、
<家で寿司を作ろう>の第2回目『巻き寿司』です。


具には玉子焼き、きゅうり、サケ、ツナ、カニ缶、サラダ菜などを用意、好みで巻いて頂いたのですが、これがなかなか日本人も顔負けの手付き。
皆さん結構巻くのが上手い!!



2本目の『裏巻き』も積極的に挑戦、しかもこちらもほぼ成功だった様子。

第1回目の時も和気藹々のムードでしたが、実習時間の多かった今回は一段と賑やか、自分で巻いたお寿司の一皿の出来あがりに満足してもらったようです。
片付けに関しては、協力すれば参加しているって気分になる、とかなんとか、あっという間に交替でやろうという話にまとめてくれ、おかげでほとんど予定時間を大幅に延長せずに終了。
こういうイタリア人のソリダリエタ(solidalieta`)精神、いつも感心します。

今回はAIさんとMASAKOさんが応援にかけつけてくれ、料理がお得意なふたりの協力に私はとても心強い思いをしました。どうもありがとう。

2007年11月12日

本ーわたしの外国語学習法

フランス語勉強会グループがまた時期も続けようと計画中で、参加する意志があるかどうか近日中に返事をしなければならない。思うように学習が進まない頃、3ヶ国語に堪能というかの人が推薦していた本。読んでみました。

ロンブ・カトーの『わたしの外国語学習法』(ちくま学芸文庫)

コースで親しいクラスメートのひとりが私のいつも愚痴る出来ない言い訳を制して、
『いくら日本人がグループが違う言語を勉強するといってもイタリア語を知っているなら、然程障害があるわけじゃない。要は自習をどれだけやるかにかかってくる。勉強もしないで出来ないっていうのは言い訳にすぎない。』ご尤も。

こんな当たり前に思えることが何故か『緊急に必要』とされない場合に限って難しいとさえ思えてくる。

ロンブ女史流、最後の方にある10の教訓(要約)

1)毎日学習する。最低10分でも
2)自分を鞭打ったりしないかわりに、学習は捨てない。本から離れ、ラジオを聞いたり練習をひとまずおいて、別のかたちを考える。
3)コンテストから引き離して覚え込まない。
4)多くの場合に最大限利用可能な成句を覚える。
5)あらゆる物事を頭の中で訳してみる。
6)正しい文章をしっかり覚えこむ
7)成句や熟語的表現は1~3人称、単数で書き出し覚える。
8)四方八方から同時に襲撃する。読み、書き、聞く、見る
9)喋るのをおそれない、誤りをおかすことを恐れず、それを直してくれるように頼む。そして、実際に誤りを指摘されたら、がっかりしたり、いじけたりしない。
10)自分自身が外国語を達成できると確信する。
*太字は個人的に特に同調する。

先のクラスメートはドイツ語、フランス語、スペイン語を操り、中国語を勉強中。中国語にはちょっとてこずっているらしいが。こういう何カ国語も話す人々の存在にはそれほど驚くことはなくなったのは、イタリア語を日常会話として生活しているからこそ、地続きの外国語は日本語からに比べると短距離だと実際感じているから。

しかし、短距離だからといっても、クラスメートのなかでも努力している人こそ、習得しているということも見逃してならないと思う。

2007年11月8日

映画 『どん底』

映画と演劇などを会員制で公開しているNuovoSpazioArteOFFというところで、日本語オリジナル版を上映するというので、行ってきました。

映画は1957年の黒澤明監督、『どん底』。
画像空間の配置や台詞の言いまわしは舞台を観賞しているような印象、しかもお説教(?)が多い重たい映画、と思ったら案の定後から映画評で、ゴーリキーの戯曲が原作、黒澤監督が日本に舞台を移して作った映画だと知る。しかもかなり原作に忠実に作っている作品、モノカメラ撮影ということ。

時代は江戸、さまざまな人間が共存している長屋の住人とその『日暮し』を描き、どう生きるかを問う。

モノクロ、音響も悪く、口の動きと音がずれているという条件で、映像も全体に暗いうえ、話もやりきれない。長屋の様子はちょうど今イタリアで問題になっているジプシーの棲家を思わせるような、簡素な紙と木の作りで、畳でなく藁のような床、混沌としていてちょっと目を覆いたくなるみすぼらしさ。継ぎのあたった布団一枚にもぐってまるまって床に寝ていたり、アルコール中毒の人間や、病気で死にかけている妻がいる男、売春婦、盗人、旗本くずれ、などの長屋の住人たち、それはそれは貧しい様子。隣に住む長屋の主人と底意地の悪そうな妻と世間知らずな妹の三人はそれでも着ているもので、金銭の出入りがあることがわかるけれど、決して幸せでない。この夫婦の怖い顔とすざましい姉妹喧嘩!

話し言葉は現代の若者とちょっと違う、でも確かにこういうアクセントでこんな話し方をする人達はいた、と思う。
それにしても、憂さ晴らしにお酒を飲み、酔っ払い、歌い踊い、何事も笑ってやり過ごす(ごまかす)傾向は何時の時代もでしょう。最初か最後にウへへへ、とかウヒヒとかいうのはいかにも日本人らしいけれど。 

とても面白かったのはこの頃の俳優たちの表情豊かで個性的な顔つき。美男美女もいるし、それに醜いという顔もあるということ。50年前には『日本女性』の美しさがあったらしい。山本五十鈴も香川京子もかなり綺麗です。

観始めてすぐ席を立ちたくなったほど、話も画像も暗い作品だったのに、登場人物の動きなど隅々観察したらもっといろいろな発見があったかもしれないと、書きながら思っている。

2007年11月4日

夕暮れのアディジェ川







アディジェ川にかかるポンテ・ピエトラ(Ponte Pietra)。
灯りがボチボチ燈る頃から一段と魅惑的になるヴェローナの一角。

2007年10月31日

25年ぶりの再会

 昨年の今ごろの話しなのだが、県の納税課から夫宛一通の手紙が届く。

その内容は自動二輪車に対する税金の滞納通知で、支払いの勧告だった。彼も疑ったのは、その二輪車は実に25年前に他人に売却したもので、納税滞納期間は近年3年くらいのものだったせいだ。昔々大切に乗っていた二輪車がいまだに廃車されずに実存、その税金の支払い勧告を今ごろ受け取ったのだ。他人の手に渡してからというもの、その消息は売った相手ももちろん途絶えていたのだ。

ところで問題は納税勧告で、彼は早速たまたま窓口の会社に勤めているいとこに相談してみる。売却したことを証明する公証書類は手元に残っていたから、彼のものでないことは明らかなのだ。

さらにつてをたどって、3年前までの二輪所有者の氏名と在住地域だけは調べることが出来る。

といってもここには同性同名なんてゴマンといる、特に地域で同じ苗字なんてザラである。しかも本人の名前で電話帳に登録しているとは限らない昨今。それでもと、同性の苗字のお宅に電話をかけ持ち主を探し始めたところ、ある日『それはきっとうちの甥だ』というシニョ-レにつながったのである。

親切な叔父サマは彼の甥の居所を教えてくれたことでちょっと期待を持ち、その後二輪の持ち主本人と連絡がとれることとなった。

持ち主もまた驚いたに違いないが、誠意のある人で幸いだったと思う。廃車処理手続きをする旨即合意。

約1年後のある日廃車処理場で二輪持ち主と待ち合わせすることになった。彼は二輪を、こちらは手続き書類を持参、25年ぶりに再会することになる。

その日持ち主は今でも愛好家らしい様相で現れた。20年ほど前に買取り何年間かは乗っていたが、部品が破損してからというものガレージにナイロンカバーをかけただけの状態で保管、動かない二輪車のために3年前までずっと税金だけ支払っていたというわけだ。

さてその二輪は錆がひどく、チェ-ンも切れたまま、見るからに手入れがされずにほっておかれたことがわかりちょっと痛々しい姿。名義変更がされていなかったために書類手続きができずにいたのだろう。25年後漸く廃車場行きになったという運命である。

シンプル極まりない型にみえるが、当時にしてみれば画期的な仕様モデルだったそうで、夫君がアルバイトをして貯めたお金で始めて手に入れた中古の『二輪車』だったという。想像していた以上に保管状態が悪かったのは残念、でも買った当時に自分専用のデザインにしようと切りこみをいれた個所がまだそのまま残っていたのは懐かしかったなぁ、、、とポツリ。

2007年10月29日

ヴェネト流焼き鳥祭り

先々週末です。知り合いのご両親がこのヴェネト州の小さな町出身とかで、もし近くまで来たら寄ってくれ、なんて言われたので覗いてみました。

いわゆる狩猟の時期行なわれている秋祭りで、獲物の鳥類を串焼きにして地域の人々で分け合い祝うという伝統行事を、禁猟云々の問題により、串焼きの肉をキジと豚に変えて慣習を引き継いでいるということです。

そこで始めて知ったのが『ポレンタ・ウンタ』。
ポレンタは一日前に用意し適当な大きさに切って焼いている串の下に鉄板を置き温め直すのですが、その時に脂が焼き鳥(豚)からしたたり落ち、焦げるのと同時に脂でちょっとべたべたになる、つまり肉の味がつくってことだそうな。生活の知恵といいますか。

週末土日に行なわれた祭りで、予約して昼食や夕食に自宅に持ちかえり、親戚や友人たちと集まる口実に一役かっているようです。随分注文が多かったそうで、飛び入りの私たちはかなり待つことになりましたが、知り合いの知り合いというこの町に住む一家族が、世間話をしたり、そのまた友人を紹介してくれたり、待っている間も飽きずに過ごせるように配慮を怠らない、ヴェネト州の人々人懐こいと聞いていましたが、まさにその通り。

2007年10月22日

日本料理教室

Yomoyamabanashi会主催の『日本料理教室 Sushi fai da te 』、ようやく第一回目にこぎつけました。

昨年まで隣県本部の日本文化交流会主催で行なっていた料理教室を引き継ぐようなかたちになりましたが、今回の特徴は在トレンティーノの日本人グループが提案する“家庭で作るお寿司”を中心に行なうこと。


 
講師は在トレント歴が長く、料理好きの本人と家族のためにずっと日本食を作ることを試みてきた、そして昨年までの教室経験のあるKさんにお願いしました。

和食を作るために必要な基本的な調味料などは近年オープンしたタイ・アジア食材店で手に入ります。中心地にも近く寄りやすい場所にあり、毎週木曜日には新鮮な野菜が入荷、とてもありがたい店。


近頃は日本人も純和食というより、タイ、中国をはじめとする東南アジア各国の料理を、自分たちの口に合うようにアレンジして家庭でも作る傾向でしょう。この店で売っている食材を利用して、なんとなく日本で食べているものに近いものが食べられるというわけです。

さて今回は『ちらし寿司』。

お米のとぎ方から始まり、日本で食べているものってホント小さな細かい注意が必要です。そして、実に丁寧に神経を使って準備していき、出来あがりはシンプルであっても色合いも綺麗な、見た目も楽しい食事をいただく工夫をしている、、、。

等々というようなことが、少しでも伝わったことを願っております。

第1グループは女性の参加者がほとんどで、皆さんとても協力的、和気あいあいとした雰囲気で、しかも積極的。しっかりメモもとっていただいた様子からすると、きっと家でも試してくれるでしょう!

イタリア人学生チャギくんには料理部のメール担当をお願いし、当日は、以前に料理コース参加経験のある、四方山話囲碁部長のレイクくんにも助っ人に来てもらいました。日本語の読み書きにも驚くほど優れているこの二人の、影ながらの応援と協力にとっても感謝してます。

2007年7月27日

囲碁の練習会

日本でいうと5段イタリアでは3段という、そうそうたる囲碁のタイトルを持つ方が最近トレントに越してきたので、いったいその遊戯とはどんなものだろうと興味をもって調べてみると、どうやらイタリアでもかなりの数の愛好家が存在するらしいのだ。

その“黒帯のカンピオネッサ”(と勝手に呼ばせてもらっている)に『是非ともイタリア人に手ほどきを』ともちかけるとすぐにOKの快い返事。もちろんご主人もご協力いただけそうなのであった。

そんなことがキッカケで、現在まだ非公式ではあるが、春に発足したばかりのYomoyamabanashi会として、碁に少し興味を持っていたり、対戦の経験があるイタリア人数人と在トレンティーノの日本人数人に声をかけて、暫く前から試験的に集まって遊び方を習い始めている。秋頃に是非ともトーナメントを企画したいと思っていたが、対戦するにはまだまだ訓練が必要らしい。

練習のためににテーブルを貸してくれているのは、中心地にほど近いBarycentroというバールで、そこはさまざまな趣味の同好会の会合などのためにテーブルを開放してくれている。

時々とおりすがりの、バールにお茶を飲みにきた人々が、何をやっているのだろうかと覗きにくる。私たちの伝統的な遊戯『囲碁』を知ることによって、興味のアンテナの先をちょっと日本に向けるトレンティーノの人たちが、少しずつ増えてくれたら嬉しいと願っているのだけれど。

2007年7月16日

コルシカ島(3)

リヴォルノからバスティアへカーフェリーで4時間の旅。カーフェリーにはレストラン、バール、ミニマーケットもあり、甲板で日光浴し、昼食後くつろいでいる間に到着する。

フェリーのレストランの職員が皆張りきって仕事していて、サービス精神旺盛。この辺が今まで訪れた観光地と違って、コルシカ到着前に既に好印象。(もちろん帰路も同様に)


島にはコルクガシの木が至るところに見られ、ほとんどがこんな風に皮をはがれされている。そういえば同じ地中海のサルデーニャはワインのコルクの産地で有名。

それから食べ物のことをちょっとひとこと、ふたこと。

コルシカ島はチーズやサラミが地元特産品なのだそうだ。でも個人的に美味しい!!と思わず口にでたのは、前回もちょっと触れたバゲット。イタリアに戻ってから、バゲットまたはフランスパンとして売っているものを味見し直したものの、コルシカで朝食に食べていた焼き立てのバゲット以上のものはまだ見つかっていない、、、

フランス(コルシカ)風の朝食は、オレンジジュース、バターとジャムを塗りこんだバゲットとカフェオレというかのもの、この組み合わせは普段と変わらないのに、なぜかそれぞれがイタリアの味と違う。ここは断然朝食が美味しい。

そこでお土産にグレープフルーツとオレンジ、クラマンティ-ヌのミックスジャムを買う。ジャムという言葉『confiture』(コンフィットュ-に聞こえる)からも想像できそうなたっぷりした味のもので、糖分と酸味がちょうど良く、これも私のマルメラータ(ジャム)に対する意識を変えてしまった。

もうひとつ、コルシカ産ビール『ピエトラ』は栗からできていて、琥珀色のコクがあるとても個性的な味。機会があったら是非お試しを。

2007年7月13日

Corsica-コルシカ島(2)




コルシカは地中海に浮かぶフランスの島。ジェノヴァ湾から155キロ、トスカーナ州から80キロの海をはさんだ場所に位置する。

その表面積は8722平方キロメートル、最北端から最南端までの距離が183キロ、西北の83キロ、周囲を1100キロ以上の長い海岸線に囲まれているが、島のほとんどが山岳地帯である。13世紀にジェノヴァの支配が確率、現在あるコルシカ島の街はジェノヴァ統治時代に建造されたものだそうだ。




[パロンバッジャ]
この透明度と白い砂浜はやはり半島から離れないと見つからないのでは。既に視覚からリラックス、、、。






 

2007年7月5日

Corsica-コルシカ島(1)

始めて訪れたのに、休暇が終りに近づくと感ずる郷愁に似たもの、その場所が気に入るとありますよね。



ポルトヴェッキオからバスティアの港に向かう約150キロの道中で、島を離れることが寂しくなってしまったほど愛着を持ってしまった、とてもイイところです。

小さな港町はフランスの香りがたっぷり、イタリアから随分近いのに異国の気分を十分味わえて、人々の暖かいもてなしや、新鮮な魚介類と感動的に美味しいバゲットで幸せな気分になり、エメラルドグリーンの海と長い長い白い砂浜の美しさを大満喫、しっかりリヴァイタルして帰ってきました。

さて整理するにはちょっと落ち着いてからに。



まず幾つかの写真をアップします。コルシカ島南端ボニファチオから。でもさすがに強風でした、この日。



細い路地、ピンク色の壁

2007年6月18日

ジョルジョの誕生日



イタリアでは誕生日をお祝いするのは、友人同志の年中行事のひとつ。少なくとも集まる口実に誕生会をやる友達が私のまわりには多い。集まって皆で美味しいものを食べて飲んでお喋りするっていうのが好きな人々が多いのだ。

それに自分ももちろんだが近しい人も、存在しているのは誕生があったから祝って然るべき、だから祝う、と考えるのは全然おかしくない。祝いたいし、お祝いされたいじゃない、誰しもやはり。

ともかく私も“祝い事が好き、集まること”が好きな部類なのでこのごくごく内輪のお呼ばれを楽しみにでかける。

ずっと年上なので、「ともだち」といって失礼にあたらないかちょっと心配だけれど、知り合ってからはもう随分長い。
日本人の私はいつもからかわれる対象でしかないのが残念である。これはまだ私がイタリアに来たばかりの頃、イタリア語のコースを終了して得意気になって『Lei』で話しかけてからずっとだ。



彼はイタリア人の美意識の高さとその層の厚さを想像させてしまう。その彼のアトリエの作品である。もし機会がもっとあれば、お友達のひとりとして頻繁にお付き合いさせていただきたいシニカルで個性的なジョルジョである。

2007年6月14日

Chiaretto Bardolino Doc キアレット・バルドリーノDOC

6月8日から10日まで『Palio del Chiaretto Bardolino Doc』とガルデサーノの丘陵地帯で耕作される葡萄からできるロゼDOCワインのプロモーションが行われていた。



湖畔の長い散策道に並ぶカンティーナのスタンド。
よくよく見るとゼラニウムもナプキンの色も、ワインに合わせて一帯が全部ピンク色。樽も新しいから幾分、、、





ガルダ湖畔のバルドリーノBardolinoは目の前に広々と湖の景色が広がるリゾート地として知られる。トレントから車で約一時間、私たちがドライヴがてらよく足を延ばす場所のひとつ。

この時期位から夏の間中ほぼ毎週末いろんな催しがあって訪れる人々を飽きさせない、そしてそこに流れるゆったりした雰囲気が『休日を過ごしている』という気分にさせてくれる。

日中が長くなったこの頃。こんな風に外にいられる時間が多い季節は、気持ちも軽くなり目に入ものも一層綺麗に映って見えるのだ。

こぞってガルダ湖を訪れる北欧からの観光客はその後何度も通ってしまうらしい。
それはなぜって、一度この土地に来て、ここの空気を吸ってみると理解できるってもの。


それに、いかにも冷えてます、という感じのガラス瓶を見かけるとロゼはどうかなと関心をそそりつい立寄りしたくなる気持ち、わかるでしょう、、、?!


バルドリーノのインフォメーション:
http://www.comune.bardolino.vr.it/
http://www.stradadelbardolino.com/

2007年6月11日

サクランボの季節


こちらのサクラの木から成る果物は、サクランボという名前からイメージする可憐なフルーツでなく、少し勇ましい感じのする濃いワインカラーで、果肉も厚い味もしっかりしている種類。

近所の畑ではせっせとサクランボ採りに忙しい様子。それにしても一本のサクラの木にはかなりの数多いサクランボが成るので、成熟するこの頃はお花見さながら『サクランボ見物』でもできそうなほど。

季節の果物を本来のその時期に食べること、シンプルな選択で四季の彩りを楽しめるという贅沢が味わえる。

2007年6月7日

私事、、、伊丹十三のこと

(c)新潮社
何を隠そう、私はこの方のファンのひとり。

昔昔書いていたエッセイや、文庫本に描かれた挿絵がとても好きだった。その愉快さは、大笑いするというより、笑いがこみあげるのをこらえられなくてクククッと傍から見たらどうしたのといわれそうなリアクションをついしてしまう、そういう類のものだった。

どの文庫本にでていたのかはすっかり忘れてしまったが、オムレツの作り方を映像の細部を説明するように言葉にしていることがとても印象的で、そのとおりに作ってみると正にそのとおり(多分)になるということに、かなり満足したことを覚えている。

(c)新潮社

後に映画を撮ることになる伊丹十三が映画のなかの一シーンに、このオムレツが出てくるらしいことを最近知ったばかりだ。うろおぼえだが『タンポポ』なのではないかと思う。

なんとかして一度観てみたい映画。どうやらイタリア語版『Tampopo』があるらしい、是非見つけなければ。
もし知っている方がいらっしゃったらどうかご連絡を。

それからこんな本も出版されたそうだ。
この2冊の本のカバーを見ていると、そういえば動いている姿も素敵な方だったと、少し思い出してくる。

2007年6月4日

パリの石畳

和田俊著 朝日新聞社

<カバー紹介文から>
朝日新聞特派員として
パリ市サンビクトル街14番地に
居を定めた著者は、
さまざまな風に吹かれ、
さまざまな人に出会う
人々の心を魅了し続けしつづけたてきた
この街角から、
パリ、フランス、ヨーロッパ、
海のかなたの日本について語る
好エッセー49編

イタリアに住んでいる現在でもフランスという国は近くてなかなか遠い国。というのも近頃は旅行も車で移動というケースが多いので飛行機でわずかな距離のパリ行きなど、いつか行けると思いつついつも後回しになっている。

車で国境を超えてフランス国内へは数回訪れたことがあるが、同じヨーロッパの国でも景色が異なるように、文化や習慣もイタリアとは似通っているがやや違う国民性をもつ国というのが、ちょっと足を踏み入れた時の私の感想だ。

この文庫本はかなり(相当年数が経っている)前に読んで本だなの隅に誇りを被っていたものだが、近頃フランス語をかじっているから再読したくなったのだ。

カバーの紹介文の通り、著者は当時の朝日新聞特派員で文庫本になったのは1983年。EC加盟国が9ヶ国と記載されているから、時代の経過はあるものの、パリの街はもとより、ヨーロッパ生活の雰囲気を十分味わえる。たっぷり写真の入った近頃の旅行ガイドブックなんかよりはずっと想像をかりたてる。

当時に比べて今のパリはきっともっと早いリズムが生活のなかにある違いないが、フランスに対する日本人がもつ印象というのは、たとえわずかな期間であっても相変わらず、同じような驚き、感動があるのではないか。そしてこの好印象が発端でヨーロッパ文化に対する憧憬のようなものもどこかに生まれるに違いない。

このエッセイを好ましいと思うのは、見たものや感じたものを『憧憬』というフィルターを通しては描いていないところ。異文化にふりまわされずにそこに立ち止まって見渡して、目に入るものや体験することを大袈裟な装飾をせずに綴っているという感じを受けるからだ。

フランス語のコースはもう終了するが、やはりせっかくだから、ひととおり聞いたり話せるようになって近いうちにパリ行きを実現しなければ、などと期待を膨らませてくれた再読の一冊だった。

2007年6月1日

Festival Economia Trento



今年もトレント・エコノミー・フェスティヴァルが行われています。5月30日から6月3日まで。

今日はあいにくの雨模様ですが、週末は好天に恵まれますように。

各分野著名人たちによる討論を聴くためにわざわざ各地からたくさんの人々がトレントを訪れるはず、数日間の滞在中に晴天のもと、美しいトレント・チェントロを見ていただきたいではありませんか。

2007年5月28日

Cantine Aperte



5月最終日曜日は県内のいくつかの醸造所が一般訪問者にワインの試飲を提供した『Cantine Aperte』の一日。今年はトレンティーノ特産のひとつマルゼミーノワインの醸造を始めて歴史の長い、ロヴェレートのアディジェ側の西岸にあるCantina d'Isera(イゼラ葡萄醸造所)へ。



トレンティーノ産のマルゼミーノは辛口でさっぱり飲みやすいのが特徴である。
この醸造所の『907』はマルゼミーノ『Eccellente Marzemino』より味は個性的。ラグレイン、テロルデゴ、マルゼミーノ、レボ、カベルネ・フランク、カベルネ・スーヴィニオン、メルロの7種類の葡萄が混合されたワインだそうだ。



ワインの味もともかく、天井の高い総ガラス張りで自然光が入り明るいフロアとテラスからは一面の葡萄畑が望め、自然のなかでゆったりと過ごせる気分が味わえる。また、ちょうどこの日のイヴェントでジャズトリオのライヴが行われていて、ワインと音楽と新緑がほど良い調和をかもし出し、いずれも満足感を味わう。



樽で醸造させ手間隙かけたワインを味わい瞑想する趣きもあるが、日が長くなる今ごろの、夕方まだ明るいうちに軽いジャズ音楽を聴きながら、その時のシーンにあわせられる赤ワインを飲みながらチーズを軽くつまむっていうのもなかなかオツなもの。

このあたりにはイタリアの古くからの街らしい赤レンガの屋根の密集した村があるなどという、そんなことも新たに発見した日曜日でした。

2007年5月27日

Giro d'Italia

ジーロ・ディタリアの15日目、ドゥオモ広場11時出発の予定だったので、その後に走るブレンネロ通りまでちょっと様子を見に。

トレントからトレ・チーメ・ディ・ラヴェレード(Tre Cime di Lavaredo)まで通算184キロのコースで、パッソ・サンペレグリーノ(Passo San Pellegrino)、ギアウ(Giau)、コルティーナ・ダンぺッツォ(Cortina D'Ampezzo)、パッソ・トレ・クローチ(Passo Tre Croci)、ミズリーナ(Misurina)トレ・チーメ( le Tre Cime )という行程だそうだ。聞いただけで急坂やカーブが多そうな、苦戦しそうな山岳地帯を走るレース。

天気が良ければドロミティ山塊のトレ・チーメの景色は素晴らしいのです。しかし走る人々はどうなんでしょうか。

自転車で走ることといえばトレンティーノの人々に愛されているスポーツのひとつでもあり、地元トレント出身のジルベルト・シモーニもなんだかとても親近感のある人物のため、つい足を運びたくなったのでした。

ところが、自転車といえども相当なスピードがでるらしく、誘導の二輪を先頭に軍団が来るなと思いきや、あっという間に見えなくなり直後に一行の最後を見送ったという感じです。それにしても後方に自転車のグループ以上に長い列の交換用車輪を積んだ各チームのサポート車が続いていたのがとても印象的だった。個人競技であり、団体競技なのですね、これは。

2007年5月22日

トレント流BBQとおにぎり

日曜日、お天気は私たちの味方をしてくれた様子。
晴天に恵まれた一日『親睦野外バーベキュー』はどうやらそれぞれに楽しんで頂けた模様です。皆さん遠くまで足をのばして頂いてありがとう。

参加してくれた人達同志、友達の友達とか、その友達など知り合いの輪を広げてくれたらしいのは、この野外バーベキューの大きな目的のひとつで、これに成功したのは企画側も大満足。

それから朝早くから起きて遠くから蒔きと友人のパン屋特製グリッシーニ持参で参加してくれたご家族、ご家族からはお皿やコップ、紙ナプキン、なども提供していただきました。おにぎり作りに協力してくれた“おかーさん”とその家族の方たちの日本の遊びパフォーマンス、ケーキをさし入れてくれたグレッグのお母さん、もちろんYomoyamabanashiの台所担当のKさん(おにぎりとケーキ)、副会長の自称オルソC(!)は場所を確保するために早朝出向いてくれました。などなど、皆さんのご協力にとっても感謝しています。

それから忘れてはならないのは、当日大きく目立ちはしなかったものの、メニューはもちろんオーガナイズ全般についても見守ってくれアドバイス、下見、準備から買い物、計画から当日にいたるまでBBQの総監督グレッグには特にGrazie 1000。彼の援助なしにはとても実現できなかった企画です。

まず、こんな風に時々トレント近郊に住む日本人たちが集まって四方山話する、という機会を作れたらいいと思っている。そこに連れ合いや、友達のイタリア人を巻きこんだりするわけだ、自分のための楽しみに大切な人達を誘うというふうに。

そしてこれからのYomoyamabanashiの提案が、トレントに住むイタリア人と日本人の交流の接点になっていくことを願っている。

2007年5月16日

親睦野外バーベキュー

在トレント日本人とその家族を中心に、日本文化に興味を持つイタリア人(トレント人)たちを招待して親睦を目的とした野外BBQを計画中である。

年末の忘年昼食会以来、住んでる皆さんとなかなか顔を合わせてゆっくり四方山話も出来ない日が続いているということもあるし、ちょうど気候も、自然に恵まれたこの地方の春(初夏?)を満喫するには好都合、アウトドアを好むトレント人たちとそれに馴れ親しんでいる(せっかくだから馴れ親しんでほしい)トレントに住んでいる日本人たちとの親睦をはかるにはうってつけの口実ではないかと思っているわけだ。

BBQはイタリア語でいってみればグリリア-タgrigliata。今回は肉中心のトレント流グリリア-タに『ポレンタ』、そこに日本人にとって遠足にかかせない『おにぎり』を食べてもらおうという計画である。

そして『Yomoyamabanashi』会を発足したので、その紹介もできる良い機会とも思っている。もちろん在日本人の皆さんには既に口頭でお知らせ済み。

この親睦という意味を和伊辞典でひくと、まず『cameratismo』とでてくるらしいが、この言葉は戦時中ファシスト党員同志の呼び名に使われた『camerata』〈史〉という言葉から発しているという説明とのこと。そのカメラティズモの言葉はもちろん仲間意識という意味が第一で、ほかにも戦友愛なんてこともでてくる。

それからふと思ったのだが、やはりイタリアで生きていくというのは日本人にとってある意味で戦いのようなものに近い、だから“戦うための仲間意識”というのもまんざらないわけじゃないかな、と。

ま、本当はイタリア人と日本人が一緒になって大きな杓子でポレンタを四苦八苦しながら混ぜたり肉を焼いたり、ワイワイしながら親睦をはかり、そして一緒に食べる、それぞれが楽しめる一日というのが趣旨だ。

あとは天気にかかっております。どうか皆さん日ごろの行いを良くしてほしい。と、こんな時は日本人特有の神頼みをする。

2007年5月10日

続・フランス語

昨日は小人数だったので、始めてエドの隣の席になる。彼はクラスの中でも優秀なひとり。しかし飛び抜けて上達しているのは理由があった。

彼は人出不足という分野の医師で、週数日はトレント以外にも出張するという、早朝から夜遅くまで予定のある忙しい生活をしていて、そのためいつも彼の睡眠不足が話題に上るくらいだが、にもかかわらず山ほどでる宿題は忘れずにやってくる。それからなんと、彼も新しく出てくる単語を自分で作った単語帳に書きこんで意識して憶えるようにしているらしい、つまり努力している。

イタリア人の彼も努力しているから上達しているということは、私が努力もせずにできないと愚痴るのはずるいかな、と反省した次第。

毎回授業のあとフランソワ先生とバスを待つ5分くらい話をする。宿題をやるのは良いことよ、書き取りは大事だからちゃんとやりなさい、授業中全員スペルチェックする時間がないから提出しなさい、と。必然的に予習と復習はやらせるわけだ。

そして私の大きな問題は『聴くこと』。しかも発音を意識したものであり、それを毎日15分でもフランス語を繰り返し聞くこと、練習問題をたくさん解くことで随分上達するだろう、と自分でも想像できる。

ただ毎日15分でもフランス語を意識することが出来ないっていうのは『怠け』ているからで、日々の努力を怠っていながら、日本人には難しいというのは私の甘えでしたね。

2007年5月7日

Elisa エリーザ

彼女はまだ若いのに歌手歴10年だそうだ。

イタリア生活のライヴ版のような映画だという感想をもった『Manuale d’Amore 2-capitoli successivi』のEppure sentire がとっても印象に残ったので、ラジオから流れるたびに映画のことも思い出されて記憶に新しい。

そこへきて、MTVで彼女の特集をやっていたものだから、ビデオクリップと曲にまつわるエピソード、英語でされたインタヴューでの個人について話している彼女を観る機会があった。なんだかスゴイ歌手なんだ、というのが感想。かなりエネルギッシュで向上心に満ちあふれ、同時にアルバムとして出来あがるまでの葛藤など、自分の仕事に対する真剣さがうかがえた紹介番組だった。

これに刺激されて珍しくCDを購入しました。
エリーザの10年間のベストヒットアルバム、タイトルは『Soundtrack 96-06』。


1. Stay
2. Gli ostacoli del cuore (feat. Luciano Ligabue)
3. Broken
4. Swan
5. Labyrinth
6. Together
7. Gift
8. Almeno tu nell'universo
9. Heaven Out of Hell
10. Dancing
11. Una poesia anche per te
12. A Feast for Me
13. Sleeping in Your Hand (Mark Saunders Remix)
14. Luce (Tramonti a Nord Est)
15. Rainbow (Bedroom Rockers Remix)
16. Eppure sentire (Un senso di te)
17. Qualcosa che non c'è


私の場合は、同じ音楽でも詞の内容を聴いてしまうものと、聞き流してしまうものとがあり、イタリア語で歌った彼女の曲は前者、耳をすましてしまうことがよくあったのだ。それも誰のものかも知らずに。どうやらそれほどに彼女の曲は強いメッセージがあるらしい。アルバムに収録されている曲全てどこかで聴いたことがあるいうことは一種の驚きである。

なかでも何年か前にやはりレンタルで見た『Ricordati di me』に流れる『Almeno tu nell'universo』は、つぶやくように始まる曲で映画の余韻とともに心に残るもの。(ちなみに映画もいろんなことを考えさせてくれる良いものです。)

彼女が精力的に参加しているアルバム作りには映像が大事な役割を果たしていて、視覚と聴覚との両方の方法で個人を表現することを試みているらしく、かなり面白いアーティストだと思う。

是非一度聴いてみて下さい。

2007年5月2日

Profumo- パフューム ある人殺しの話

1985年出版で世界各国語でも翻訳されベストセラーになったパトリック・ジュースキントの同名小説の映画化。

18世紀のフランス、パリに程近い貧しい小さな村に生まれたジャン・バッティスティ・グルヌイユは生後まもなく孤児になり売却される。5歳になるまで言葉が話せないでいたが、彼には特別な才能があった。それは、世の中に存在するありとあらゆるものに臭いを識別する鼻をもっていたことだ。

ある日、イタリア人の香水店のオーナーにその才能を認められ、弟子入りすることになり、香水のエッセンスの蒸留法を学びはじめる。ところが彼は女性の持つ独特な香りを調合し保存する拘り続け、研究と実験を重ねていくうちに殺人を犯していくことになる。

映画は18世紀のフランスの山村の光景や衣装、エッセンスとなりうるあらゆる存在物の色彩や香水店のボトルなど、映像が非常に美しい。一方残虐なリアルなシーンもかなりあって、目を反らしたくなる場面が度々あった。

ノンフィクションの物語に違いないが、18世紀頃のフランスはまだ狂喜が充満、混乱していて、様々な過ちを犯していても不思議がないだろうと想像してしまう。天才的な臭覚の持ち主がいても少しも変ではないだろうし、大衆を惑わすという香りが、大衆を動かす思想のように存在したということもありえないこともないだろうと、錯覚を起こしかねない映画である。

フランス語

せっかく同じグループで続けることにしたのに、健康の不調や時折入ってくる仕事などの個人的な理由で近頃休みがちになっているフランス語コースについて。

ただでさえクラスメートのイタリア人に比べてリスニングのハンディがあるのにもかかわらず、日ごろの努力不足でますます遅れをとっている。

まったくイタリア人達の聴覚の構造がどうなってるんだか、あの人達は言っていることはだいたいわかるらしいのですね。そこへいくと私の頭は、聞く音と文字が一致しない限り意味が掴めないときている。

文法についてはイタリア語に非常に似通っているのでまあ問題なし、だから簡単な文章を読んで、新しい単語を辞書で引きさえすれば理解は出来る。しかしこれを文章を読まずに聴いただけの時はチンプンカンプンということが多い、のである。

フランソワ先生曰く、フランス語取得方法がイタリア人に対するものと日本人に対するものと異なる、つまり言語グループが違うからなんだそうで、同じ方法で学習することで必ずしも上達するとは限らないとのこと、私もそう思う。

もうひとつ個人的な理由がある。
教材に例題として出てくる場面のいくつかは、どうも日本人の私にしてみれば不思議と思える内容が多く、クラスメートは何食わぬ顔をして読んでいるけれど、そこに登場するフランス人たちは、イタリア人たちとは随分タイプが違うような気がしてならない。

例えば、まだ始めたばかりの頃だ。

友人が劇場で待ち合わせする場面で、8時半から始まる劇場に45分も遅れてきて「遅かった?」「今何時?」と言い、もう始まっているコメディを観に入るか、それとも食事に行こうかと悪びれず提案する。だから友達の女性は怒って家に帰ってしまうのである。

それにともなって、ついでに個人の傾向を聞いていくわけだ。すると私の番に来て、大抵時間どおりなんて答えると、日本人は皆そうね、でも時間どおりってちょっとうっとうしい、とかフランス人特有の皮肉(と勝手に思うが)を言われてしまう。確かにイタリア人は待ち合わせ時間に遅れる。フランス人もそうなのかしらね、でも45分は尋常じゃない。

さらに先に進み、先日は会社のボスが忙しさのあまりカリカリしていて、秘書にタイプの打ち直しを命じ、他の部下に対して横柄な態度。秘書の女性が「今日はボスご機嫌斜めね」と同僚に愚痴っている場面がでてくる。

確かに日本でも日常起っている出来事であっても、不愉快な感情にかかわることはあまり教材に使われないことが多いという観念があったので、ちょっとびっくりしているのだ。イタリア語の時はどうだっただろうか。

挿絵のフランス人もなんだか神経質で意地悪そうな顔つきをしてるし、日本の教科書には絶対出てこない場面ねと、いちいち苦笑しながら教材テキストに向かっている。だから自分でもいったいフランス語を好んで勉強しているのかどうか、ちょっと疑わしくなってくる。

勉強している途中であたる壁のようなものか、この停滞状態を抜ける良い方法を考えなければいけませんね。

2007年4月24日

日本語『~めぐって・~をめぐる』についての一考

a,bのどちらが正しいか。
a)この空き地の利用法をめぐってまだ両者の対立が続いている。
b)この空き地の利用法をめぐる両者の対立が続いている。

 『~をめぐって、~をめぐる』という動作の対象を示す表現の問題。
練習問題の解答はaとなっているのだが、何故bではいけないのか、という疑問が残り日本語の文法について調べてみる。

 この表現は、~を中心点にして、どんな議論や対立関係が起っているかを言う時に使われる。例えば、
①この規則の改正をめぐって、まだ討論が続いている。
②土地の利用をめぐって、ふたつの対立した意見が見られる。
③待ちの再開発をめぐり、住民が争っている。
④マンション建設をめぐる争いがようやく解決に向かった。

後には、意見の対立、いろいろな議論、争うなどの意味を持つ動詞が来ることが多い。そして使い方としては名詞+をめぐってという説明。

そこで他の参考書は、
①憲法の改正をめぐって国会で激しい論議が闘わされている。
②彼の自殺をめぐって様々なうわさや憶測が乱れとんだ。
③人事をめぐって、車内は険悪な雰囲気となった。

〈中略〉名詞を修飾するときには、NをめぐるN、NをめぐってのNの形になる。
①政治基金をめぐる疑惑がマスコミに大きくとりあげられている。
②父親の遺産をめぐっての争いは、日増しにひどくなっていった。

そして別の文法ハンドブック、

複合格助詞の多くは動詞のテ形と同じ形をしている。テ形は動詞などを熟語に続いていく形で名詞に続いていく場合には辞書形にするかもしくは「テ形+の」の形にする必要がある。
東京湾の埋め立て{×をめぐって/○をめぐる/○をめぐっての}議論は、環境大臣の一声で決着した。

〈中略〉実際には熟語に続く形のテ形でも、名詞に続く形(辞書形・「テ形+の」)のいずれでもいい場合もある。
委員たちは新しい道路の建設{をめぐって/をめぐる/をめぐっての}議論を激しく闘わせた。

この場合、テ形の「をめぐって」は「議論を闘わせた」を修飾。辞書形と「テ形+の」は「議論」を修飾しているが、実質的な意味に差があまりない。
このように述語に続き形と名詞に続く形がどちらも用いられるのは次の場合、
1) サ変動詞「議論する、勉強する」が「議論をする」「勉強をする」のように格助詞「を」を伴う場合
2) 「議論をする」の意味で「議論を闘わせる」など「する」の変わりに他の動詞が用いられる場合
3) 受身形で「議論がなされる」や「議論が闘わされる」などの形で用いられる場合

さて、bの使い方は間違いなのでしょうか?


 

2007年4月21日

La finestra sul deserto.

44匹の猫たちに時々登場するヴィットことVittorioが、Dino Buzzatiについてのエッセイ集を出版、トレント市立図書館で行われたプレゼンテーションに行って来ました。

Dino Buzzatiの傑作といわれる『Il deserto dei Tartari』の一部を朗読。アルゼンチン音楽のアコーデオン生演奏のBGMがシーンの描写の想像を駆りたて、対象になる作品の作風や内容を紹介する良い演出だったと思う。ところが質疑応答のさい、一人の男性が『なんだってアコーデオンの伴奏をつけたのか?詩の朗読じゃあるまいし!!』なんて言って憤慨して席を立ったというハプニングがあり、これに対して会場に来た他の人々からの『ブラボ!』の再喝采があった。他の皆もかなり気に入ったということでしょうね。

このエッセイ集はBuzzatiの作品や作家自身の人生における永遠のテーマ、人生の苦悩、懸念、死に直面する時に自己に見出す生の意義について、作品を読みすすめるうえでの共感や疑問などを鉛筆書きでメモしておいた記録の集大成だそうだ。

小説の最後の場面、目前の広大な砂漠のなかに聳え立つ、頑丈な破壊不可能な『要塞』を目にした主人公に、作家自身の本能的にある自分との葛藤のそれと重ねたに違いないのと同様に、ヴィットもまた、以前聴いたことのある音楽や、目にする写真映像など、日常偶然出会うことがある様々な瞬間にも、Buzzatiが常に自身に持っていた孤独や苦悩を言葉で描写したシーンが重なり、今回のプレゼンテーションではそんな偶然を試したのではないだろうか。

つまり生きていくこと事が無意識に存在する意識を呼び起こす、偶然の出来事の出会いの連続なのではないかと。


Dino Buzzati (1906‐1972)
ベル-ノの名家に生まれる。父親はパヴィア大学の国際法学の教授で、ほとんど両親在住のミラノで生活する。本人も法学部を卒業する一方文学に強い興味を持つ。コリエレ・デラ・セラの報道記者としておもにヨーロッパ各地、アフリカ(1939)アジアを周る。またコリエレの芸術評論家としても活躍、ついには編集者を経て、週間誌ラ・ドメニカ・デル・コリエレの編集責任者に。常に『ノーベル賞を受賞するよりル-ブルに展示されたい。』が口癖で、『小説家でなく、描き書く』ことで日常を御伽噺語に見たてて語った。山とスキー、狩を愛す。
(『L’italiano e l’italia』guerra edizioni より引用)

2007年4月8日

Yomoyamabanashi-4ciacere 会の発足


〈お知らせ〉

この度、日本とトレンティーノの文化交流と在トレント日本人の生活支援が主な目的の小さな会を発足しました。

会(Associazione)の名称はYomoyamabanashi-4ciacere、声に出して読んでみると日本語で『四方山話』となり、トレント方言で『クワトロチアチェレ』となります。

近頃リクエストが増えてきた日本語の学習や日本料理教室、その他の親睦会などを通じ、トレントの人々に日本人や日本文化と交流する機会を設け、その一方で在トレント日本人たちが積極的にトレント地方文化にふれながら‘生活を楽しむ行事’を予定しています。

もちろんここに住む個人個人が日本人の代表ですが、ちょっと集合するだけで、日本人のアイデンティティがより明確になり、文化を伝達する大きな力になり得ると思うのですが、いかがなものですか?

2007年3月29日

フレスコ画研修


仕事で、湿った漆喰の上に顔料を水で溶いたもので描く湿式法のフレスコ画研修にお付き合いした。

個人的に興味のある壁画だから、かなり頻繁に観賞している私でも、描く技法を説明することは観るのと異なり、指導の先生方も私も四苦八苦。フレスコ画や絵画を専門にしていなければ、想像もできないことなのかもしれません。

自分自身の通訳の技量はまだまだと反省。ちなみに言い訳すると、ぎりぎりに依頼されたので私の準備期間が十分とはいえなかった。依頼側のイタリア人は大抵その場でなんとかなると思うらしく、もちろんイタリア人の場合はその場で臨機応変にできるらしいが、慎重派で心配性の私はそうはいかない。こういう技術用語の多い場合は、通訳と通訳される側との打ち合わせが事前にできていたほうがスムーズに事運ぶと思うのですよね。(でもイタリアはこういうケースが多い、だから当日緊張しまくる)

フレスコ画を描くことは、かなり綿密な計画的作業で、実際の壁に向かうまえに下絵を仕上げておく必要があるそうだ。フレスコ画の下絵というのは、色も部分的な詳細もしっかりデッサンしたものを意味するらしい。漆喰の壁を作り、その壁が乾ききらない4,5時間のうちに、下絵から専用の顔料を使って絵を仕上げていく。

下書きを壁に映す方法は2つあり、下絵に針で穴をあけて顔料の粉を中に入れたタンポンのようなものでたたき移す方法と、透明の(現在は)ナイロンに下絵を写して転写する方法がある。でも研修時間が短い今回は、下絵を縮小し、スライドで大きく映写して描き留めていく方法を主に使っていた。これは時間の短縮になるが、正統なやり方というわけではない。

次に仕上げと呼ばれるが、実際に壁(支持体)に向かって絵を仕上げる作業。まず全体に基本の数色の色彩傾向で色をつけていく。後に色が変えられる場合を見込んで薄い系統の色あいで、全体におおよそ完成させる。その後色彩や影や光の効果を色調の濃淡で描いていくというわけだ。だから色は何色も重ねていることもあり、あるいは最初に青色だったものが赤色系に変えることも出来る。(することもある。)

部分部分の詳細については、それからの最終仕上げの段階で描き足す。キャンパスが壁画という大きな支持体であること、したがって遠くから観賞する場合がほとんどであり、時に然程綿密に描く必要がない部分もある。

1日でできる作業はわずか限られていて、大きな支持体の場合は上のほうから一部づつ仕上げていく。しかし作業中に完成作品について迷う時間がないため、下書きの段階で完成された作品を手元に用意しておく。あらゆる詳細も含めて。

そして出来あがった下書き=完成作品を時間内に複写するという作業なのだそうだ。

あらためて過去の有名な芸術家たちの、夥しい数の部分的な綿密なスケッチが残されている意味が想像でき、それがいかに重要なものなのかが納得できる。まず下絵で完成した作品を作り、短時間で部分的に仕上げるという相当な技術と経験が必要な画法なのだ。過去の芸術家たちがあらゆる意味で評価されることは意味があり、相当の価値があることだと認識する。

2007年3月16日

日本の生活と緑茶についての話

3月26日から4月1日まで "Il Gioco degli Specchi"という文学フェスティバルが開催される。( a.t.a.s Culturaアソシェ-ション主催)
期間中のパフォーマンスのひとつで、世界各国のお茶をトレントの人々に試飲してもらおうということらしい。

親しくしているエレナから、トレント在住の日本人、つまり外国人のひとりとして、日本の生活と緑茶についてちょっと話してくれない、なんて頼まれた。前々から何かの形で日本文化を紹介したいと思っていたので、今回は快く引きうけることにした。

それでいまのところ、トレント近郊で手に入る範囲でのいろんな種類の緑茶を買いこみ、あらためて飲み比べたり、入れ方を練習したりと、パフォーマンスのための準備、勉強中である。

それにしても自分の国の習慣を、あらためて他の国の人々に紹介することは、当たり前のことであるためにそれ程簡単でなく、これがまた奥が深いということを実感。

でも自分でもなかなか面白いし、これは『日本茶ブーム』を引き起こせるかも、という期待を込めて(!!)イタリア人の友人知人に立ち寄ってね、と宣伝している。

2007年3月8日

3月8日ーFesta della Donna


もし女性というものが存在しなかったら、このお祝いはないってことだね、某日ってところかな。『祝3月8日!!』
ーヴィットからのSMS

、、、知り合いの女性皆に送ったんだろうけど、嬉しいのは一緒でしょう!?

2007年3月6日

インフルエンザ

ついに私も今年の強力なインフルエンザに感染、ダウンする。
私がダウンする前はグレッグが、聞けばかなり流行していて、たくさんの人がいずれも高熱と咳を伴う症状で、仕事や学校を休んでいるらしい。

今回はそれこそ40度近い熱を出したのには自分でもびっくりした。市販の『タキピリーナ』という解熱剤をホームドクターに指示されたが、1度程度下がるが39度を超えると1度下がっても38度台で、さすがに動く元気がでずに、ひたすら休むことになった。

普段薬には縁のない私も、熱や激しい咳を伴うインフルエンザの時はしかたなく薬を飲むことにする。『タキピリーナ』は解熱として、でもこれは発汗しないので、いつもの『アスピリーナ』に変更する。風邪のときやちょっと疲労感があるときなどに服用している。でも気をつけたいのは、その後で服用した薬の中に含まれる成分が別の作用をもたらすってことである。だから熱が下がり、快復に向かっていると思っても、突然鼻血がでたりして心配することもある。医者である友達に聞いたら、アスピリーナの成分のなかに、止血しにくくなるものが含まれているから、鼻血がでたりといった副作用がでることもあるとか。

ともかく治療の目的で自然に反した薬品を身体に投与するわけだから、なんらかの副作用がってもしかりだが、普段問題が少ないおかげで、健康の変化には敏感になるものだ。

インフルエンザごときでも、不健康なことの不愉快さに厭き、『健康』の大切さを痛感させられる。ついでに、病気にならないための生活を意識するようになる、というのは自然なことである。

1度はグレッグのインフルエンザ、2度目は自分のインフルエンザのせいで2週間欠席していたフランス語のコースに久しぶりに顔を出したら、『病気だったの?』『大丈夫?』とクラスメートのひとりひとりが声をかけてくれる。皆優しい、と思ったらまた少し元気を取り戻す、、単純ですが。

2007年2月18日

Manuale d'Amore 2- 愛の手引書 2

監督:ジョヴァンニ・ヴェロネージ

出演:カルロ・ヴェルドーネ、モニカ・ベルルッチ、リッカルド・スカンマルチオ、ファビオ・ヴォロ、セルジ ョ・ルビーニ、アントニオ・アルバネ-ゼ、クラウディオ・ビシオ 他、
 
 
2ということは、1があるはずなのだが、あいにく観ていない。
でも、この映画が面白かったからDVDレンタルでそのうちに・・・。

そういえば公開前は、モニカ・ベルルッチが、セクシー過ぎるフィジオテラピスタ役で、患者の若い男性との『エロス』の一部のエピソードが話題に上っていた。彼女はイタリア女優の中で一番綺麗とも言われているのだ。確かにこんな美しい人にリハビリを担当されたら、ちょっと複雑な気持ちになるだろう。
今回は特にストーリーについて事前に調べず、話題作を観に行こうという軽い気持ちで出掛けた。

映画は『エロス』『母性』『結婚』『空極の愛』のショートストーリーから成り立ち、どのテーマも"今のイタリア"での、広い層のイタリア人に興味深い身近なものだと思う。特に、人口受精や同性同志の結婚についての法的認知案と、教会側の反論は頻繁に耳にする話題である。

そしてどのエピソードのどの場合も、男性と女性の(あるいは女性側)心理の微妙な違いや、理性だけではコントロールできない感情の行方を、おおきな可能性として表現していてとても面白かった。

それから映画はマドリッドでも撮影されているが、斬新で近代的な建築様式の街並みが垣間見られて、視覚的にも楽しめる。挿入曲もイタリアのポピュラーな歌手たちばかりのもの、映像はそのままイタリア生活のライヴ版といった感じである。

オフィシャル・サイト:http://www.manualedamore2.it/

2007年2月13日

gomasio

トレントでも最近大注目の自然食品であるが、Naturasiでは日本のスーパーでもなかなか目立たない、梅干仁丹(メイド・イン・ジャパン)なんかが売っていて、ちょっと不思議なものを見つけるのでたまにのぞいてみる。

"GOMASIO"と書かれたパッケージがあり(詰め替え用100g 1,8ユーロ)よく読むと『ごま塩』だろう、原料は案の定『ごま』と『塩』であるが、どうやら『すりごま』(白)のようだ。

早速買って、その夜『インゲンのごまあえ』を作ってみると和食の一品になる。醤油を使うところ、オリーブオイルをたらせば、イタリア風味にもなりそう。

と考えると、料理にあまりはっきりした国境はないってことかな。

NaturaSi
via Brennero 138, Trento
tel:0461-402158

2007年2月12日

落書き禁止

 イタリアでよく見かける壁の落書き。

でもこれが我が家の外の駐車場、しかもプライベートと書かれているプレートの下にどうどうとされると、近頃はこの辺も無礼な人々"maleducati" が増えたのだと思ってがっかり、そして憤慨。

カーニヴァルのお祭り騒ぎの跡なんじゃない?とか友人に、なーに目くじら立てることもないといわれたけれど、公共場所でも私有地でも落書きは粗野な行為。見知らぬ他人が書き残した家の壁の落書きを消すのは私、怒るのも無理ないでしょう?

2007年2月9日

フランス語学習

1月早々から上手い具合に教室がみつかり、先生との金額交渉と皆の予定の調整ができたので、私たちのフランス語学習は『教師付きのコース』に切り替わっている。

この実現について、たくさんの時間を砕いてくれたはヴィットだった。
彼はやはり教師でイタリア語を教えているので、確かに職業上慣れたことかもしれない。それにしても仕事を持っている、ほかのクラスメート全員の希望を調整するのはそれほど簡単ではない。

日本人の私はイタリア人と同等にやるには、少し耳と発音にハンデがあると彼も承知している(と想像する)が、尻込みしている時には、いつも励ましの言葉と気使いを忘れなかった。だから、第1回の授業のときに、前回よりずっと効果的だと感じて、すぐに彼の見えない後押しにおおいに感謝した。

今回は市役所に申し込みをして、公立の中学校の放課後の教室を借りることにしたのだ。イタリアの小中学校は1クラスの人数が少ないらしく、教室も小さく、先生の目も耳も生徒全体に届くようになっている。散漫になりがちな子供たちを教育するための良い環境だなあと、遠いむかしの、自分の小中学校時代の教室と比較しながら感心したりする。

小さい教室の、しかも開き直って一番前の、聞くのも話すのもよくできるアンナの隣を陣取った。彼女のようなわかっているひとに、時々イタリア語で解説が必要な私に手を貸してもらいたいからだ。

教師つきコースが始まる前は、聞き取れないことで他の皆についていけないのではないかとかなり心配していたが、この教室は、フランス人女性の高めの細い声が聞き取れるのだ。もちろん、授業内容からそれる笑い話なんかは、半分くらいしか理解できていないから、一緒に笑えないというのが現状なのだが。でも、自分で音の聞き取りができると意識すると嬉しくなってくる。

それから、一番前の席は黒板との距離が近いので、癖のある彼女の書くアルファベットもよく見える。だから言ったことを逃すという回数が少ない。

そういえば、前回の授業のことだ。
ことある毎に日本人にはフランス語の発音が難しいでしょう、といわれているのだが、音によってはイタリア人より、日本語のほうが馴染みのあるものもあるということを発見。『あらら、日本人のほうが上手い』と先生が苦笑するなんてこともあった。つまりイタリア人にとっても難しいのだ。

昨年受講した初めてのフランス語コースの時より、格段にわかりやすく、聞こえてくると話してみる、話に加わると面白いからますます意欲的になってくる。

イタリア語にも英語にも近い言葉が多いから、正しい発音を追及されなければ、よくわかっていない私でもフランス語風に話す(?)ことはそれほど難しくなさそうだ。

ただし、イタリア語とフランス語は似通っているがために、ちょっと誤解をしやすい。フランス語はとてもダイレクトな表現をするという印象を受けるのは、まだ私が初心者だからかもしれない。

暫く勉強してみるつもりだ。

とても良い教材を勧められたので、紹介しておきます。ここにあるフランス語発音に対比する日本語の音というのが興味深かったので。
東外大言語モジュール

2007年1月31日

シンドラーのリスト

 1月27日はアウシュヴィッツ強制収容所解放記念日だそうだ。

第二次戦時下のナチス軍のユダヤ人収容は、イタリアはもちろん全ヨーロッパの現代に生きる人々にとっては、理解不可能でまた、裁ききれない、忘れがたい歴史上の出来事だろう。

先日TVで映画『シンドラーのリスト』を(再々?)放送、久しぶりにもう一度観賞した。

トマス・キニーリーの同名の原作で、私の本棚にあるのは磯野宏訳<新潮文庫>である。第二次戦時下のポーランドでの、表面はナチス服従を装いながら、およそ1200人のユダヤ人を救ったドイツ人実業家オスカー・シンドラーの実話物語である。

その覚書によれば、1980年とあるかばん屋を訪れた筆者が、ブリーフケースの値段を訪ねた時の、その店主が“シンドラーの生き残り組”と称する人々のうちのひとりだったという。物語は“シンドラーの生き残り組”のうち50人の人々とのインタヴューにもとづいたものであるそうだ。

一方映画は1993年、スティーヴン・スピルバーグ監督のアメリカ映画、アカデミーの7部門を受賞しているそうだ。

一瞬も気をそらせない映画である。特に人間の錯乱や残虐さについて考えさせられる。と同時にどんな時代背景においても、自分自身のリスクを追いながらも、正義を通す努力をした人物がいることを忘れてはならないと思う。

誤りであってもそれが大多数になった時に、正当化されることの恐ろしさが戦争を描いた映画などではよくわかる。大多数でそれがかなりの数になった時に、はじめてどこかにいずれかの疑問が沸くもので、多くの疑問が沸いたころには誤りの度が超えている場合が多いらしい。

大戦後60年以上を経た今でも、当時の迫害について相変わらず問われている。にもかかわらず、別のかたちの意味を持たない(かのように思える)無駄な争いや暴動の報道が後をたたない。

何が『錯乱』でどこまでが『残虐』なのか、その時の判断の難しさを問われる。それから、ユダヤ人に対する独特のエピソードや過去における偏見について、日本人の私には奥深く難解なテーマであることを、機会があるたびに再認識する。

2007年1月18日

Hell in the Pacific-太平洋の地獄


監督:ジョン・ブアマン
主演:リー・マービン、三船敏郎

日本語を教えていると、私自身も知らない日本の情報を、教えている彼女たちから得ることも多い。

そのひとつが懐かしい日本の俳優の出てくる映画で、生徒のひとりが教えてくれた1968年製作のアメリカ映画。彼女は日本語を勉強しようと録画したらしいが、ブラウン役の三船敏郎は叫んでいるばかりなので、聞き取りにくく、辞書をひいたところで単語はわからずにいたに違いない。どうやら日本語の学習にはならなかったようです。

映画は太平洋の孤島に残された米兵と日本兵の共存?を描いているのだが、同じ境遇においてのアメリカ人と日本人との、それぞれの反応の違いが可笑しい。

こう比較すると、やはり米兵は全般にリラックスしていてずる賢く、日本兵の築いた生活品や獲得物を横取りしても厚顔。太平洋の孤島で、自分ひとりが生き延びることがまず最優先の状況だから仕方がないともいえるが。

一方日本兵は、どんな境遇においても几帳面で計画的、環境に適用しようと努力する。無人島での生活も規則正しく、可能な範囲で生きるため前向きな姿勢である。(流石!)飲料水を確保したり、雨風をしのぐ場所を家に化し柵を作る、健康管理のための体力つくりも怠らない、など時間の過ごし方も、寝ているだけの米兵とは大違いなのだ。

近代西洋映画にでてくる日本人は、大抵どこか間が抜けていてコミカルなことが多いが、真面目であることがまたコミカルに映ることもある。この映画はあえて几帳面で努力家、真面目で硬い日本人気質を強調したようなところもあり、それを傍から眺めてからかっている米人という印象も受けた。

しかし、硬いとも思われる日本人気質は、もっと自慢しても良さそう。ずる賢い(と私には映った)米兵よりもずっと建設的、とても魅力なことだと思う。映画での三船敏郎は顔つきもしまっていてなかなかハンサムだったせいもあるが、(1968年作です!)気質も外見も日本人硬派の代表のよう、迫力あります。西洋人を真似るばかりが良いわけではないのねと、きっと納得するはず。