1月27日はアウシュヴィッツ強制収容所解放記念日だそうだ。
第二次戦時下のナチス軍のユダヤ人収容は、イタリアはもちろん全ヨーロッパの現代に生きる人々にとっては、理解不可能でまた、裁ききれない、忘れがたい歴史上の出来事だろう。
先日TVで映画『シンドラーのリスト』を(再々?)放送、久しぶりにもう一度観賞した。
トマス・キニーリーの同名の原作で、私の本棚にあるのは磯野宏訳<新潮文庫>である。第二次戦時下のポーランドでの、表面はナチス服従を装いながら、およそ1200人のユダヤ人を救ったドイツ人実業家オスカー・シンドラーの実話物語である。
その覚書によれば、1980年とあるかばん屋を訪れた筆者が、ブリーフケースの値段を訪ねた時の、その店主が“シンドラーの生き残り組”と称する人々のうちのひとりだったという。物語は“シンドラーの生き残り組”のうち50人の人々とのインタヴューにもとづいたものであるそうだ。
一方映画は1993年、スティーヴン・スピルバーグ監督のアメリカ映画、アカデミーの7部門を受賞しているそうだ。
一瞬も気をそらせない映画である。特に人間の錯乱や残虐さについて考えさせられる。と同時にどんな時代背景においても、自分自身のリスクを追いながらも、正義を通す努力をした人物がいることを忘れてはならないと思う。
誤りであってもそれが大多数になった時に、正当化されることの恐ろしさが戦争を描いた映画などではよくわかる。大多数でそれがかなりの数になった時に、はじめてどこかにいずれかの疑問が沸くもので、多くの疑問が沸いたころには誤りの度が超えている場合が多いらしい。
大戦後60年以上を経た今でも、当時の迫害について相変わらず問われている。にもかかわらず、別のかたちの意味を持たない(かのように思える)無駄な争いや暴動の報道が後をたたない。
何が『錯乱』でどこまでが『残虐』なのか、その時の判断の難しさを問われる。それから、ユダヤ人に対する独特のエピソードや過去における偏見について、日本人の私には奥深く難解なテーマであることを、機会があるたびに再認識する。
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