20代の半ばに友達と開いたフリーマーケットで本も売ったから、もうかなり手元から離れているが、(後の後悔先に立たず。トホホ。その後同じ本を探しに古本屋を回ったっけ。)それでも売らなかったものもあるのだ、幸い。
毎年帰省の際に必ず何回かは書店に立ち寄り、長居して気になる本を探すのが習慣。それに実家の本棚から数冊スーツケースに入れて持ち帰ることにしている。だからといって新しく買った本を読み終えているかというと、そうでもなく、時間のあるときにゆっくり読もうまたは読み直そうという類のものである。その中の一冊。『空想工房』を恐らく○十年ぶりに読む。
本来活字中毒だから、読むか書くかしていないと落ち着かないのだが、近頃はもっぱらパソコンで読むことが多く、しかもあらゆる情報が入るからやり出したら止まらない。
しかし、キーボードかマウスが原因だと思うが、関節炎になり、ほっておいたら肩が動かなくなり、腕の筋力が落ち、マウスを使う右手の握力がすっかり衰え、つまり都合が悪いのだ、体調が思わしくないのは。近年のパソコン漬けを大いに反省している。
しかし、キーボードかマウスが原因だと思うが、関節炎になり、ほっておいたら肩が動かなくなり、腕の筋力が落ち、マウスを使う右手の握力がすっかり衰え、つまり都合が悪いのだ、体調が思わしくないのは。近年のパソコン漬けを大いに反省している。
『ググル』(というらしい)手を休めて、ページをめくることにした。随分日に焼けてる事で、時間の経過を意識せざるを得ないなぁ。
エッシャーのことを知ったのは、安野光雅のエッセイだったのか、不思議な絵を見て、エッシャーのパズルに親近感を覚えたのか、さっぱり覚えていないが、なんと夫が若かりし頃に夢中になったらしく、`我が家の壁にその一枚が飾ってあって、夫君との妙な趣味の一致のもとを見つける。
久しぶりに読み返し、(納)得したこと。
『ABCの本』の覚え書き。言葉に対する日本人とアメリカ人、イギリス人の意見の違いというのがとても愉快なのだが、正に今日本の外に住んでいるおかげで、一つの言葉に対する考え方の違いに面食うなんて言うのは頻繁なので、言葉を選ぶ時の苦労の様子が実に良くわかる。
昔々本で読んだことを生で体験しているなんて、実に幸いだ。
安野光雅という、クリエーターの豊かな、あるいは危険な想像力を共有している気分がずっと続く。自分も実はどこかいつも妙なところに飛んでいく空想を持て余していて、時々まずいと思っていたが、もっとずっとずっと遠く飛ぶ人もいたのだと、少し安堵。
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